飛行時間型質量分析計とは

飛行時間型質量分析法(time-of-flight mass spectrometry; TOFMS)は,1946年にStephensにより紹介され,1970年代以降のパルス計測技術の進歩により,さまざまな分野で有用な質量分析法として利用される様になってきている.TOFMSは,一般に次のような長所を持つといわれている.(1)原理上測定できる質量範囲に制限がない.(2)スキャンを行う必要がないため,全質量範囲のイオンを同時に検出することが可能であり,高感度である.一方,質量分解能は低くて使い物にならないという時代が長く続いてきた.しかし,15〜20年前ぐらいから高速のパルス回路技術が格段に進歩し,さらに以下に述べる分解能を向上させるための様々な改良をすることで,1〜2万程度の質量分解能が得られるようになり,現在では多くの高分解能が得られる装置が市販されるようになっている.
TOFMSの測定原理を簡単に述べる.下図は飛行時間型質量分析計の概念図である.

  • TOF模式図.png

イオン源で一定の加速電圧Vで加速されたイオン(質量m ,価数z )が,飛行距離Lを飛行した場合の飛行時間Tは, 

  • 数式 1.gif

となる.ここで,eは素電荷である.したがって,飛行時間を測定することにより,イオンの質量電荷比m/zを測定することが出来る.実際には,イオン源でイオンをパルス化し,検出器に到着するイオン強度と飛行時間との関係(飛行時間スペクトル)を測定する.また,質量分解能m / Δmは,飛行時間スペクトルのピーク幅Δt(すなわち,到着時間の広がり.飛行時間型の場合,通常半値幅をとる.)と

  • Eqn2.gif

の関係にあり,分解能を向上させるためには,ピーク幅Δtを小さくする(広がらないようにする)か,または飛行時間Tをのばす(飛行距離を伸ばす)ようにすればよい.ピーク幅Δtが大きくなる原因としては,イオン源内での初期位置・エネルギーの広がり,およびイオン源出射条件の広がり,すなわちエネルギー・位置・角度の広がりなどがある.これらの影響をできるだけ小さくするために,二段加速型イオン源,time-lag収束型イオン源,直交加速型イオン源,イオンミラー(リフレクトロン),扇形電場を用いた飛行時間型質量分析計などが開発されてきた.これらにより,Δtは数ナノ秒以下に抑えられるようになっている.現状では,検出器や電気回路の応答速度などの問題で,仮にこれ以上ピーク幅Δtが小さくできても,効果がないところまできている.一方,分解能は飛行時間T,すなわち飛行距離に比例する.したがって,分解能を向上させるためには,飛行距離を長く取る必要がある.

マルチターン飛行時間型質量分析計とは

飛行時間型質量分析計の分解能を向上させるためには,飛行距離を長く取る必要がある.しかし直線型・反射(リフレクトロン)型では,「飛行距離を伸ばす」=「装置が大きくなる」であり,スペースの問題から数メートル程度の飛行距離(質量分解能は数千〜数万程度)というのが,実際に使用可能な装置の限界となる.大阪大学大学院理学研究科質量分析グループでは,1996年頃から彗星探査ロゼッタミッションに搭載する小型質量分析計の開発を機に,同一飛行空間を複数回周回させることで長い飛行距離を得ることが可能であるマルチターン飛行時間型質量分析計(MULTUM)の開発を行ってきた.
同一飛行空間を複数回周回させることで.飛行距離は長くなるが,この場合,周回部の収差が大きければ,周回させるごとにイオンが広がっていき,かえって分解能・感度が低下してしまうことが考えられる.したがって,周回部は空間および飛行時間に関して「完全収束」(周回後のイオンの状態が周回前と全く同じ)している必要がある.イオン光学系の構成要素(電場・Qレンズなど)を対称に配置することで,空間・飛行時間に関する複数の収束が満たされることが知られており,我々は,対称性を導入した場合について,完全収束を満たすための条件を系統的に調べ.円筒電場4個と四重極レンズ(Qレンズ)8個からなる完全収束条件を満たす光学系「MULTUM」ならびに,四重極レンズを無くして円筒電場をトロイダル電場(軌道平面と垂直な方向にも曲率をもった電場)に変えた光学系「MULTUM II」を見つけ出した.下図は,「TRIO-DRAW」(大阪大学大学院理学研究科質量分析グループで開発した3次近似でトランスファーマトリックス法でイオン軌道シミュレーションを行えるソフト)による「MULTUM」のイオン軌道シミュレーションの結果である.図の緑色の線は初期位置の違い,青色は初期角度の違い,赤色は初期エネルギーの違いをもったイオンの軌道を示している.さまざまな初期位置・角度・エネルギーを持ったイオンは,周回後には出発した状態と全く同じ状態で戻ってきていることがわかる.飛行時間に関しても,さまざまな初期条件を持ち同時に出発した同じ質量電荷比のイオンは,周回後,同時刻に到着する.これにより,多重周回させてもイオンが空間的・時間的にひろがっていくことなく,高分解能を得ることができる.
MULTUM.pngMULTUMII.png